玉尾GL、江ノ島の豊かな自然に触れ、心が洗われる。


 玉尾が問題だと感じる機械・システムは、それらを包括した「イノベーション」「産業発展」と、市民生活における、その本末転倒な側面である。人類の行く末は知ったこっちゃないが、こういうことにも時として玉尾は思いを馳せた。


 一つの機械やシステムの形を持って個人個人に支給されたテクノロジーが、個人の望みとは逆行して機能していると考えられる。本来ならば国民は「豊かな暮らし」を得るためにテクノロジーを迎え入れた、支給された、と考えられていたが、果たして想像通りの「豊かな暮らし」は得られたか、という、よく浮上する命題がある。玉尾は江ノ島の裏山を下りながら、とんちみたいだ!と岩場に向かって一人で笑った。


 一例として、洗濯機を家庭に取り入れた家族がその手作業から解放された途端、そこにできた空き時間は「余暇」になるのか。いや、洗濯機は単なる作業の効率化であり、代わりの労働がそこにすかさず充てられる。職場におけるパソコン、公共の電車、も同様である。しかし、元はと言えば人間はこれらと引き換えに「余暇」を求めたと思われる。

 であるはずが、このようなテクノロジーの供給によって多くの人間の生活は次のように変わった。まず、行動に要する時間が把握され、普遍化された。例えば、渋谷から新宿に向かうという時に、その時間が30分以内であるということ、またそれを監視する術があるということは自明のものとして(GPSや 電話)、我々の行動は物理的、精神的に束縛された。第二に、この普遍化された基準から逸脱することが限りなく生活を困難にした。例えば通販企業アマゾンが配達に要する時間を年々短縮する傍で、この法則から配達会社、例えば佐川急便が取り残される事態が生まれた。きっと俺のように会社を辞める奴もいたんだろう、とここで初めて玉尾は日頃はあまりにもどうでも良すぎる人類なのに同情した。

  これは特別不思議なことではなく、ソフト面にハード面が追いつけることの方が不思議であり、UBEREATSの食事があまり綺麗でない状態で届いたり、運送会社が配達要員の給料が払えなかったり、ネット質屋サービスがリリース一日目で破綻したり、これらはあくまでもソフト面でシュミレートされることと、バックグラウンドのハード面においてそれらが実現されることの難易度の違いを物語る。

 つまり、テクノロジーが目下のところで我々の望みを叶えると、我々は瞬く間にその代償に見舞われるのが、社会における「機械」や「システム」の供給条件である。これを望むのは、国家の豊かさをGDPの増大にによって叶うものと定義し、それを大義として循環する仕組みが存在するからだと思われる。

「豊かな国家」は、医療、教育、衛生、食育、芸術、など、様々なものを国民に提供することができる。これは、多ければ多いほど、多様であるほどいい、という定義が行われていないだろうか。であるとするならば、確かに、GDPは増え続けないといけない。

 GDPが増えないといけないならば、産業効率は常にい改善され続けなければならない。いかなる作業工程も短縮され、空いた時間にまた新たな作業を組み込むことを怠ってはならない。国がそのように運営されるように監視もしなくてはならない。我々、なんのためのテクノロジーか、よくよく考えずに、知らず知らずにこの国家的大義を全うするために、とにかくテクノロジーを受け取りつづけている。

 

 これの何がおかしいか。

 そもそもテクノロジー、技術は最古にしてどのように誕生したか、とある雑誌の編集長が話していた。単純に「目的」によって、である。目的ある当事者が、目的達成のの過程で技術を産んだ。目的と技術の保持者が同じ、これが「テクノロジー」の原点ではなかったか。身を守る槍を作る、石を磨く、火を起こす。もちろん、先に開発した者がそれらを周囲に流布したであろうが、受け手はそれを自ら望み、仕組みを理解して実践する。

 この仕組みが、いつからか崩れた。テクノロジーの受け手には、必ずしも積極的な理解や動機が伴わなくなった。よくわからないけど、便利だから恩恵にあずかろう、という人間が大半になった。元はというと明日までに隣の村にどうしても行かねば娘が死ぬ、という人間が開発した交通手段を、特に急がなくても良いような人間が使えるようになった、と言える。すると、こういったことがトップダウン式に、疑問を持たないことが当たり前のような官僚制における軍事面などで活用されて、やはり加速する。



一箇所一箇所のからくりが、その一着の目的にとって必要か否かを考えながら、作る。そのような品が、究極的に目的に合っていれば、きっと数も種類もあまり重要ではない気がする。でもこれは自らで調整しないとなかなかわからない。市販のものは、ココが完璧だけどココが惜しい、など、ある。見方を変えてみても、この一着は好きだけど、これを毎日着るわけにはいかない、という問題点もありうる。すると今度の目的は、たとえば毎日着ることが可能な一着のシャツ、毎週末着ることが可能なドレス、を作ることになるかもしれない。そんな風に考え抜かれて誕生する技術が、本人にとって本末転倒になることはなく、本人の考える製作プロセス、生活習慣になりうると思う。


 玉尾の結論としては、可能な限り自らの求めるもの、目的を明確にし、それ以上でもそれ以下でもない生産力を自力で駆使できれば、知らず知らずのうちにテクノロジーやシステムに飲み込まれる「本末転倒」に陥らないで済む可能性が高いと思われる。



 しかし、玉尾はおっさんなので、しかも、退職済みのおっさんなので、たまにこういうことを考えて江ノ島やら海岸やらを散歩するだけである。人類は玉尾にとって無害であり、また、玉尾も彼らにとって無害だった。





りさこ。